歌人 北久保まりこ
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ながらみ書房『短歌往来』2025年8月号 「うたと旅の風景」
ながらみ書房「短歌往来」2025年8月号特集のご依頼を賜りました。
ご掲載頂きありがとうございました。
列車
北久保まりこ
霧ふかき脳死の後の草原をこころはどこへ向かふのだらう
実感の無きままに飛ぶNH一〇六便 葬儀のために
呆気なく入国審査経たりけり 友の迎へ亡き到着ゲート
放たれし蝶が吸はれてゆく空の青さを恐る イトスギの森
深しんと冷えゆく棺 埋葬の儀式の後の夏草の寂
気付きしはいつだつたらう 死も生の旅の続きの風景なるを
耳慣れぬ駅名なりき座席から貴方は消えてもどらなかつた
生前と死後をつなぐや霧の駅 涙に曇るプラットフォーム
わたくしもいづれ旅立つ 逃げ水が陽炎にとけてゆく一周忌
終りなき魂の旅 またいつか乗り合はせたき幻想列車
(旅の愛誦歌)
死者も乗せにし白き帆掛け船(ファルーカ)今日のわが旅のからだをひととき運ぶ (佐佐木幸綱 『アニマ』)
もし旅人体質とよべるものがあるのなら、間違いなく自分はそれである。VR技術により、手軽に旅を疑似体験できる昨今ではあるが、踏む土の粘度や大気の匂い、見知らぬ同士が交わす何気ない会話など、実際に移動してこそ得られる瞬間に勝るものはない。
「列車」は、ソウルメイトの葬儀のための渡米をテーマに綴った一連である。当然ながら、いつもの旅の高揚感は無く、使い慣れたはずの空港が何故か絵空事めいて、目に映る全てが自らと隔絶された時空のようであった。
人生も長い旅である。その途上、偶然同じ車両に乗り合わせ意気投合した私達は、国籍や言語の違いを超え、詩歌の共作を編むほどに親しくなった。ある夏の日、耳慣れぬ名の駅で彼女は席をたち、そのまま戻らなかった。涙で曇ったプラットフォームに、 無音の弦楽のような霧が立ち始めていた。彼女は目に見えぬ魂の旅人となったのだろうか。
死が旅の終着駅ではなく通過駅だとしたら、またいつか同じ列車に乗り合わせたいと切に願う。
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